Greek Wine ギリシャのワイン
ディオニソスのワイン 神酒と幸せ
ギリシャでの葡萄栽培は、はるかな昔、数千年前に始まりました。古代ギリシャ人がディオニソスまたはバッカスと呼ばれる神をワインやぶどう、そして葡萄園の豊穣の神としてあがめられたという事実から、当時すでに葡萄栽培がギリシャの無数の地域におけるならわしとなっていたと言えます。その当の神が、自らへの崇拝のおかえしとして、ぶどうとその栽培を広めたと言われています。
アイトリアで彼はイネアス王に葡萄園を与え、客としてその王宮に滞在している間、ワインの秘密に迫る助言を授けました。ディオニソスは儀式を行い、その中で忠実な信者たちに自分をいかにして崇めたらいいかをはっきりさせました。葡萄栽培の各段階を儀式的な側面と結びつけることで、ディオニソス崇拝を確立させたのです。言い換えれば、これは歓楽、陽気、飲酒と楽しみの神を讃える宗教的表現でした。葡萄の収穫の開始時や、収穫直後に新しい一番ワインが出来てきたとき、祝祭をし、ワインを飲み、あけっぴろげにダンスをすることで、人々は日々のつらい単調な仕事から解放されました。神自身が蔦の葉や葡萄の葉の冠をかぶり、とりまきたちとともにこれらの歓楽の中心的役割を担いました。とりまきには、森のニンフェス、シリネス、サティリ、それからメナデス(バッキエス)などがいました。シリネスは馬のひずめと尾を持った男たちで、ニンフェスたちを待ち伏せ、洞窟においつめて襲ったのです。サティリはシリネスに似た、神通力のある自然の生き物であり、メナデスは浮かれ騒ぐ自然のスピリットの姿をしている女性たちです。このそろって陽気なとりまき連中は、ダンスや歌そして、ふんだんにあふれ出るワインに目がないのです。
これらの儀式においては、ディオニソスへの宗教歌であるディテュラムボスが聞かれました。これらが古代の(悲)劇、そしてそれに続く舞台劇のルーツなのです。 しかしディオニソスとは関係なく、オリンポスの12神もまた、やってきてワインを楽しむのにやぶさかではありませんでした。 つまるところ彼らの有名な「ネクタル」はワイン以外なく、永遠の青春の女神へーベーが給仕をした目的は、このネクタルを神々のために注ぐ以外にありませんでした。ホメロスが書いているように、ヘーベーはゼウスの酌人ガニュメーデスの姿を借りて、神なる杯を「ふちまで」つまり、あふれ出るまで満たそうとしていたのです。
時をはるばると遡ったころのワインの楽しみについて、ホメロスからさらなる証拠を得ることができます。オデッセイでは、トロイ征服に向かったオデュッセウスがその最初の障害であったシコネス族の土地であるイズマロスを略奪したとき、アポロの神官であるマロナスから立派な贈り物をもらったといいます。マロナスが彼に敬意を表したもので、12樽の甘い酔い心地のいいワインでした。これが、後に彼がキュークロープスのポリュペーモスに捧げたワインで、ポリュペーモスは葡萄園のことなど何も知らないにも関わらず、大喜びでそれを受け取りました。続いて、陰謀を巡らす女神キルケーが、オデュッセウスの仲間を誘惑しようと、彼らにたっぷりワインを与え、それによって魔法の薬をそっと飲ませるチャンスを狙いました。
しかし葡萄果汁を供することだけがこれほど歓迎されたわけではありません。手入れの行き届いた葡萄園は、支配者の特権でした。オデュッセウスが故郷のイタケーに戻って年老いた父と対面したとき、自分が誰なのかを父に分からせようとして、彼は昔のできごと、とりわけ、彼が子供だったときに起こったことを持ち出しました。 「50列の葡萄の木もきっと次々に実を結ぶことが約束されていた。様々な色合いのふさが垂れ下がり、夏の日の神によって重みを増して枝をしならせていた……」
文学作品の中には、実際、数え切れぬほど、ワインや葡萄園についての記述があります。 しかも、あらゆる点において明らかになってきているのは、ギリシャの土地では他のどこよりも、ワインが歌や神話、劇、精神や哲学へとその姿を変えてきたということなのです。
中世のギリシャワインの軌跡をたどる
ワイン色の海を越えて−− 中世のギリシャワインの軌跡をたどる
Ilias Anagnostakis(イリアス アナグノスタキス)
ビザンチン時代のギリシャ人たちは、自らのローマ帝国を兵で囲まれて守られている葡萄畑に例え、その忠実な臣民たちを神によって植えられた葡萄の木に例えた。自分たちの信仰は豊かに育つ葡萄とふんだんにあふれ出るワインで報われていると彼らは信じ、船は貿易商品を詰める限り満載し、そしてコンスタンチノープル(アングロサクソン人たちには「ウィンバーグ」すなわちワインの都として知られていた)は地上の楽園となっていた。本物の信仰から少しでも逸脱すれば、敵に葡萄畑が破壊される結果になる−−つまり、首都が神の怒りでワイン絞りの中の葡萄のようにつぶされるとキリスト教徒たちは信じていたのである。罰は、2度与えられた。コンスタンチノープルは1204年に十字軍に屈した。1453年にはオスマントルコがやってきた。
ギリシャのワイン、葡萄の品種、そしてワイン醸造の技術はそもそも、そのビザンチン流の呼び名によって西洋に知られるようになった。ビザンチウム(ビザンチン帝国の首都)は、その他のことと同様ワインづくりにおいても、古来よりの東方の伝統を注意深く維持した。そしてギリシャのスウィートワインは、ホメロスが謳った「ワイン色の海」の往時と同じ貿易路を旅したのである。十字軍やベネチア人、そしてジェノア人のおかげで12世紀から大航海時代に至るまでローマはヨーロッパのワイン地図上で中心的地位にあり続けた。
中世のキプロス、クレタ、ミティリニ、サモス、エビア、ペロポネソスそして小アジアの海岸地帯の有名なワインについての最初の記述は、12世紀のコムニ二帝国時代に現れている。 スミルナ、ビチュニア、テッサロニキ、ヘレスポントス、トレビゾンド、そしてアティカはすでに、ふんだんにワインを生産していたようである。ヒオス諸島やリムノス諸島、聖アトス山、そしてエビアの港やペロポネソス半島は大量の輸出も始めていた。
良いワインには、たいがいギリシャから出荷されるときの港の名前が付けられた。モネムヴァシア スウィートワインはその一例である。それがペロポネソス原産で作られたものだろうが、クレタやその他のエーゲ海の島で産したものであろうが、そのワインの名前はそれがはじめに輸出されたペロポネソス半島南部の港町を思い出させる。モネムヴァシアワインは傑出した不朽の中世ギリシャワインのひとつである。ベネチア商人の手によって、それはマルヴァジアあるいはマルムジーワインとしてヨーロッパ中に知られるようになった。
クレタやキプロスのマスカット葡萄もまた、挿し枝やワインとして遠く離れた海岸にたどりついた。ビザンチンの葡萄園はコンスタンチノープルが十字軍によって陥落させられるまでは、比較的守られ、孤立していた。ヨーロッパの征服者たち、そして後にはイタリア人の入植者たちが続々とやってきてギリシャと彼らの国々を往来するにつれて、ギリシャの葡萄の品種が地中海盆地のあらゆるところに移植された。そうするなかで彼らはまた知らず知らずに大昔にフェニキア商人とギリシャ入植者たちがはるかヨーロッパの大西洋岸にまで葡萄栽培を拡げたときに始まった潮流を復活させたのである。
イタリアにおけるギリシャの影響
イタリアは何千年にも渡ってギリシャ方式を用いて葡萄を栽培してきた。古代ギリシャの葡萄栽培の影響は、イタリア南部とシチリア島のいわゆる「大ギリシャ」を越え、アルプス地方にまで至っている。 多くのイタリアの名前は中期ビザンチン時代に遡る−アグリアニコ、アレアティコ、グレコ、マルヴァジア、モスカット-モスカテリ、ローマニア、そしてヴィン サントなどのワインはすべて、ギリシャ起源を持つと考えられなければならない。14世紀の裁判官ペトルス・デ・クレセンチスは、ギリシャから伝わった葡萄栽培の方法についてことさらに言及している。ヴェネトワインはとりわけギリシャ式の影響を受けている。その最上級のワインはすべて天日で半乾燥させたぶどうからできるのである。強く甘いレチオトとアンマロネは、エーゲ海の島々やキプロスからのワインをもとにしていると信じられている。
イベリア半島における影響
ジェノア人たちはマスカット葡萄をエーゲ海から南スペインに移植し、またすでに13世紀にはフランスや中央ヨーロッパに向けてキプロスから挿し枝が持ち出されている。トカイワインやマルサラワインはいまでも、この時代にハンガリーやシシリーにたどりついたキプロス産葡萄に由来しているのだ。14世紀にはリスボンの南のアゾイアというポルトガルの港がオソエワインを生産し始めた。これはおそらくレバント(東部地中海)地方の葡萄を源としているマスカットワインで、今日セトゥーバル(リスボン南東方の大西洋に臨む港市)の周辺地域で見られるワインに似ている。
ジェノア人とポルトガル人が1420年にマデイラ島に上陸したとき、ヘンリー航海王子は葡萄栽培を命じた。マデイラの葡萄園のほとんどはキプロスの株に由来しているが、この島のマームゼーワインはその源をクレタ島にたどる。16世紀までにはギリシャ式ワインは有名なマデイラワインとなった。
スペインのスウィートワインの需要の高まりは??そのことが原因の一部ではないかもしれないが??ローマ帝国の終焉((時期的に)符合する。ビザンチン帝国が1453年にトルコに屈したすぐ後、アンダルシアがエーゲ海からのものを真似たスウィートワインの主要な産地となった。
1490年、スペイン人たちはクレタ原産の葡萄をカナリア諸島に植え、「カナリア・サック」と呼ばれたそのワインは16世紀中を通じてイングランドで人気を誇った。 スペイン版やイタリア版のワインがベネチアの領土からの正統ギリシャワインと競い合い、14世紀のカタロニア人作家フランシス・エイクセミネイスはキプロスやクレタやマジョルカからのスウィートワインのほうが好きだと宣言しなくてはいけないような気になったほどだった。本物とコピーを見分けるために、イタリアとスペインは「グレコ(=ギリシアの)」という称号を作った。「ロマニア」という呼称はギリシャ「風」ワインばかりでなく、元祖ギリシャのワインにも使われた。
フランスとイギリスにおけるギリシャワイン
フランス人とイギリス人が最初にギリシャワインを知ったのは、十字軍遠征の時だった。 コンスタンチノープル周辺やペロポネソス半島、キプロスやシリアのフランス領土は、マスカット生産地帯と直接の接触が持てたので、13世紀の南フランスに最初に登場したのはマスカットである。フランシス一世はキプロスの葡萄をフォンテーヌブロー(パリの郊外)で栽培しようといろいろ試みたが、その葡萄はパリでは育たなかった。
キプロス産マルヴァシア(古代ギリシャ人にとっての名前)は第二次十字軍遠征の後、ホスピタイラー騎士団の所領コマンダリアで最初に生産されたとき、その中世における名前であるコマンダリアという名を得た。1224年以前、エンリ・ダンデリという詩人がキプロスのワインは世界一だと褒め称えていた。彼の作品の1つには、フランスの王が英国人の司祭を招いて、どのワインが最も王にふさわしいかを決めさせたコンテストの模様が歌われている。フランス、スペインとキプロスからの70種のワインを注意深く味わった後、司祭はキプロスワインを選ぶのである。
コマンダリアとマルヴァシアは、神のためのワイン、王家のワイン、恋人たちのワインと見なされた。それらは威厳があり、エキゾチックで、霊的で、魔法のようで、悪魔的だった−−コマンダリアはストレートで飲んだら危険とさえ思われていた。1344〜45年にキプロスを訪れた英国人が報告していることには、ファマグスタのラ・カバ聖堂には「人間のはらわたを焼く」生のワインを飲んで死んだ英国騎士たちの墓があるという。シェークスピア戯曲の登場人物カシオは「オセロ」の中でキプロスワインに酔いしれ、こう叫ぶ。
「おお、見えざるワインの精よ! もしそなたに既知の名がないのなら、そなたを悪魔と呼ばせてほしい!」
もちろんこのワインはフランスやイギリスにも輸出された。1352年にロンドンで開かれた王の晩餐会ではイングランドのエドワード三世、スコットランドのデビッド王、フランスのジョン二世、デンマークのワルデマール王、そしてキプロスのピーター一世にコマンダリアがふんだんに供された。
1453年、百年戦争が終わり、ビザンチン帝国が最終的に崩壊したときから、ギリシャワインのイングランドへの大量輸出が始まった。ジャンヌ・ダルクは約束通り兵士たちとともにパリでワインを飲んだ−−彼女はイギリス人をガスコーニュとボルドーから追い払い、イルドフランスに進軍してきていた。ベネチアは良く計算された外交的たちまわりで、彼女がパリに到着して間もなく、英国の王にその最上のワインを大樽8つ分贈った。フランスのクラレット(フランス・ボルドー産の赤ワイン)が手に入らなくなったので、英国人たちは熱狂的に、東方から届き始めたこのスウィートワインに救いを求めた。フランス人はこの流れをせきとめようと、英国に向かうベニスのガレー船を幾度となく捕らえたがマームジーワインは大流行し、ギリシャ産、あるいはギリシャ風のワインは英国の宮廷で欠かせないぜいたくとなった。
1500年までには商業的競争のため、また海賊からの防衛のために巨大な船が現れ始めており、ベネチア商人たちは数隻の艦隊を作って一緒に航海した。 1472年、フランスの海賊がイギリス海峡で400個の大樽に入ったスウィートワインを輸送していたベネチアのガレー船を襲った。 1490年には2500樽を積んでイギリスに向かっていた船が目的地の近くまできて座礁した。
ギリシャワインはクラレンス王族公爵ジョージの死にまつわる憶測にも絡むようになった。彼は1478年に反逆罪で有罪とされて、兄のエドワード四世王によってロンドン塔に収監されたのである。物議をかもした彼の死刑執行は密かに行われ、彼は謀殺されたといううわさに火がついた。うわさによれば、クラレンスは彼が大いに好んだマームジーの樽の中で溺れさせられていたということだった。シェークスピアはリチャード三世でこの話に触れている。一人目の殺人者がクラレンスを刺してこう言うのである。「あれもこれも、受け入れなさい。そうしないと私はあなたをマームジーの樽の中で溺れさせてしまうよ」
ルネッサンス時代の戦争とワイン
ギリシャ人にとってワインを飲むことは、旅と同義だ。海はワインであり、グラスは船である。人々もワインも葡萄も、ローマ帝国からロシア、ナポリ、ベニス、ジェノア、スペイン、英国、マデイラ島、カナリア諸島、そして大西洋を越えて新大陸にも旅した。15世紀後半から16世紀の終わりにかけて、キプロス島、エーゲ諸島、クレタは、はるばるシナイ山、スペイン、英国、ロシアまで学者や芸術家も輸出した。
ミセル・マルロ タルチャノーニャは1453年にコンスタンチノープルが陥落した2、3ヶ月後に生まれたらしい。彼はイタリアで勉強し、その後巡回兵となった−−ヨーロッパの海岸地帯で任務を遂行していたエストラディオトつまりソルダッティ ディ・ベントゥーラの一員である。 1472年にロシア皇帝イワン三世と、元ビザンチン皇帝の子孫であるゾエー・パライオローニャが結婚した後、マルロを含む多くのビザンチン人がモスクワに行った。 彼はタタール人たちとの戦争で戦い、また、甘いエーゲ産マスカットとモネムヴァシアワインがロシアに侵攻するのを目撃した。イタリアに帰還するとすぐ、マルロはサレルノ候アントニオ・サン・セベリノの後援を得、その後フィレンツェのメディチ家が彼の後ろ盾となった。
1494年までには彼はリヨンで、フランス王チャールズ8世の北部イタリアへの軍事遠征のために働くようになっていた。1500年に亡くなるまで、特にフィレンツェにいた時代、マルロは軍隊での任務と同じぐらい情熱的に、詩的な自然賛歌を書いたが、ディオニュソスに捧げた詩はとくにその生命力と激しさで際立っていた。この詩人はワインの神の豊穣、時を戻しているかのようなその永続する若さと、荒々しい海の波をもなだめる彼の力を讃えるのである。
大西洋への進出
イタリア語でグレチ・ディ・ベントゥーラ=冒険家のギリシャ人)として知られているギリシャの多くの冒険家たちは、地中海を飛び出して大西洋に向かっていった。ギリシャ人ひいきの伝説のひとつはこんなことすら言う−−クリストファー・コロンブスはギリシャの貴族だった、と。少なくとも彼の航海のうちひとつはジェノア領ではなくエーゲ海のヒロス島に向かうものだった。
伝説や神話は措いておくとしても、ギリシャの船乗りはスペインやポルトガルの発見の航海に多数参加していた。ロードス島やクレタ島、ペレポネソス半島やコルフュ出身のギリシャ人たちがマゼランが世界一周をしたときに一緒に航海している。セバスチャン・カボットに同行したギリシャ人船乗りたちはラプラタ川(アルゼンチン)まで行っている。スペイン人が中南米を征服するのを、ギリシャの兵隊たちが手伝ったのである。彼らが航海に参加していたことは、南イタリア・シシリー・アンダルシア・マデイラ・カナリア諸島にすでに移植され栽培されていたギリシャの葡萄の品種が新大陸に到達したことと符合する。征服者たちは葡萄の木を船に乗せて携えて行き、コルテスは中南米の地主たちに葡萄園を耕すように強制した。
とりわけクレタ島はマスカットやマルヴァシアのふるさとであり、そして、未知の世界に乗り出していって世界中に市場や貿易路を開こうとした兵士や船乗りの多くをも生み出していた。ダロダス一族はワイン貿易がらみで16世紀のセビリア、ポーランドやモルダビアに姿をあらわしている。ニコラス・デ・ロダス(ダロダス)は1520年に、コルテスのライバルであるパンフィロ・デ・ナルバエズとともにメキシコにたどりついた。1年後には彼はメキシコシティとグアテマラの一部の征服に参加している。アグスティン・デ・ロダスは妻のカタリナとその間にもうけた5人の息子と1人の娘とともにワカチュラに住んでいた。彼はメキシコシティに到達した最初の征服者の一人であるらしい。
もうひとりのクレタ人、マニュエル・グリエゴ・デ・カンディア(カンディアはクレタとイラクリオのベネチア時代の名前)は1505年から1525年の間にスペインからメキシコまで少なくとも3回旅している。1525年から1530年まで、彼はベラクルスに落ち着き、たいへんな要職である船団の視察官となった。グリエゴ・デ・カンディアは十分な量のワインをも含む艦隊のための糧食を準備する責任を持っており、それをもって1526年から1533年のペルーの征服に手を貸した。ピサロの親密な協力者の一人だったペドロ・ディ・カンディアは、ペルー遠征の時、他の多くのギリシャ人たちを配下に従えていた。彼はまた、征服者たちの火器使用能力も劇的に改善した。ヂ・カンディアはクレタのもともとの住民で、マルロやダロダス一族と同じエストラディオトだった。そして伝説的な「13のグループ トレッチェ デラ ファマ」のメンバーでもあった。インカ帝国が陥落した後、彼はクスコに居を構えた。
1522年から1554年、地中海の葡萄がメキシコや南米の東海岸に移植された。東地中海のビザンチンの十字軍にはおなじみだったレバント地方のマスカットが、スペインから新世界に到達したのは1566年のことである。1578年、フランシス・ドレーク卿はバルパライソ湾で「ギリシャ生まれのジョン・グリエゴという人」に会い、その人を彼は「水先案内人として連れていった」。そしてチリからペルーに向かっていた船を略奪した。その船は1770個のワインの大樽を積んでいた。16世紀の後半までにはペルーの南海岸とチリが、遠くフィリピンのマニラにまでスペインの入植者たちへのワインを供給し始めていた。
1578年、この英国人のワイン海賊フランシス・ドレーク卿がチリやペルーの海岸を荒らし回っている一方で、トーマス・キャベンディッシュが西インド諸島でスペイン艦隊の水先案内をしていたケファロニアのジョン・フォカスと対峙していた。1592年、スペインのために40年間奉仕した後、フォカス(ファン・デ・フーカ)はワシントン州とバンクーバーを隔てる海峡を発見した。今日その海峡は彼の名を冠されている。
ホメロスの言う「ワイン色の海」地中海からアメリカ、そしてさらにその先へと、ディオニュソスはその金色の杯の中の太陽のように西へ向かって旅をした。ディオニュソスとともにギリシャの兵隊も、ギリシャの葡萄も、ギリシャのワインも旅をした。ポルトガル人たちは長い航海でワインが寝かされて強いワインになる利点を発見した。彼らがマームジーをクレタから西インド諸島に運び、バラストとしてそれをまた積んで帰ってきたときのことである。マゼランは旅の間の軍備よりもワインの方にお金をかけた。
クレタワインの栄光
カンディアからのギリシャスウィートワインは16世紀の究極のぜいたくになった。モスクワ、ロンドン、コンスタンチノープル(1453年にイスタンブールと名前を変えた)、セビリア、クラコウ、ハンブルグ、マルセイユ、ナポリ、そしてベニスの貴族や富裕層に、クレタのマルヴァシアはそのさわやかさとともにまろやかさでも気に入られた。
ワインがいかにして作られるかについて、クレタへの旅人たちが詳細を極めた描写を数多く残している。発酵前の葡萄液を煮立てること、部分的に葡萄を天日乾燥することや、古いワインと新しいものを混ぜることなどが描かれている。この島におけるワインの消費についての見聞もある。特記されているのはクレタの女性はたいへん飲んだということだ。1600年、フランスの旅行家アンリ・デ・ヴィラモンは、クレタのワインは2種類に分けられると報告している。地元の人間が飲む、やや酸味が勝ったものと、フランス、ドイツ、オスマン帝国、ポーランド、ロシア、そして英国に輸出されるために作られる甘いワインである。
1511年から1550年の間にかなりの量のエーゲ海産ワインが英国にたどりついた。ブリストルとサザンプトンは常に、クレタ島、ヒオス島、そしてキプロス島との商業接触があった。1534年、2隻の船−−マシュー・ゴンソン号とホーリー・クロス号がヒオスとクレタへの1年に渡る長い航海から戻ってきた。積載していた大樽はオリーブ油とワインで一杯だったが、航海中に損傷していて新しい大樽に移さないと荷下ろしできないことが分かった。 積み替えの最中、赤のマームジーは今まで英国にもたらされた他のどんなワインよりもはるかに優れていることが発見された。カンディアの侯爵ズアン・サグレドが70年後に述べたように、英国人はすぐにクレタの赤ワインを特に好むようになった。
イタリアの諸都市がワインを含む地中海の産物の英国への貿易を再びコントロールするようになっていた。1550年から1571年のレパントの海戦までのことである。オスマンの勢力がマームジーの故郷モネムヴァシア(1540)の港を占領していた。ヒオス(1566)とキプロス(1570)も同様である。しかしラグーザ、ベニス、リボルノ、そしてジェノアからの船は相変わらずケファロニア、ザキントス(ベネチアにとってはゼンテ)そしてクレタ島の港町であるレシムノやハニアとの交易を続けていた。
レパントにおけるトルコの敗退のすぐあとに作られたトルカト・タッソーの叙事詩「LaGerusalemmeliberata」では十字軍に触れているが、解放されたイェルサレムにおけるキリスト教徒はクレタのワインをヨルダン川の水と混ぜて飲んだという16世紀の信仰を反映している。
中央ヨーロッパとロシア
オスマン帝国の行政と貿易はギリシャ人に牛耳られていた。ミカエル・カタクゼノスは地位を利用して、スルタン(トルコ皇帝)に影響を及ぼしモルダビアやブラキアからの収入を支配しようとした。ユダヤ系ポルトガル人でワインの鑑定家であるジョゼフ・ナシはナクソス候として知られているが、1550年にイスタンブールに本拠を定め、クレタワインのオスマンの貿易を独占し、1579年に死ぬまで関税を徴収し続けた。彼がスルタンに1570年にキプロスを占領するようそそのかし、その策のせいで国際市場からキプロスのワインがだんだんに消えていくことになったのであろう。スルタンがただそのワインを得るためだけにこの島を併合したというのは正しくないだろうが、キプロスの征服のために出された有名な命令はこういう語句を含んでいた。「この島には、王の中の王だけが所有できる宝があるのだ」
オスマン帝国が東地中海地域へ拡張しつづけたため、中央ヨーロッパを通る陸の貿易路が重要性を増し、それは西地中海におけるスペインとベネチアの商業独占に対する挑戦となった。エーゲ海のワイン商人は、イスタンブールや黒海からモルダビアや南ポーランドの貿易の中心地への長い陸路の旅の後、クラコウ、ルビリン、ワルシャワ、キエフ、そしてモスクワにたどりついた。ハンブルグやリューベックから彼らは英国に向かって出航し、船でジブラルタル海峡を通ってベニスに戻るしかなかった。1534年、スルタンの助けを借りてイスタンブール出身のギリシャ商人アンドレアス・カルカンデラはポーランドの領土を自由に通って貿易する権利を得た。 1560年から1603年にかけて、約40人のクレタ人がマルヴァシアとマスカットのワインの貿易商や流通業者として活躍していた。ギリシャ人とユダヤ人の商人が北ヨーロッパのワイン取引の中心地であるクラコウにワインを運び、ポーランドを本拠にするスコットランド人がハンガリー、モルダビア、そしてギリシャからのワインを買い上げた。抑圧的なベネチアの貿易法にもかかわらず、力強いクレタの商人層はギリシャのワインを中央ヨーロッパを通ってフランダースやポーランド、そしてロシアに密輸したのである。
16世紀のあいだずっと、特にイワン雷帝(イワン三世とビザンチン人のゾエー・パライオローニャの孫)の時代、エーゲ海のスウィートワインはロシアの民衆の祭りなどでふんだんに出回った。ギリシャの大司教、エラッソンのアーセニオスはこう描写している。
「モネムヴァシアやロマーナからの最高に薫り高いワインで一杯の銀の大樽、そして世界的に有名なクレタ島のマスカットワインが詰まったその他の大樽」
皇后が自ら貴族にワインをついだ。皇帝はクレタのワイン商人から金を借りた。
一つの時代の終わり
1578年と1579年の間に二人の英国の代理人が陸路でポーランドからイスタンブールにやってきた。英国のレバントの市場への接触を交渉するという使命を携えていた。スルタンは1580年に折れて、イギリス人が新しく設立したレバント会社を通じて自由に貿易できるようにし、東地中海の商業の衰運が始まった。スペインの国家は1596年に破産した。ベネチア商人たちもすでに経済的困窮を味わい始めていた。ヨーロッパの航路はますます英国人とオランダ人に支配されるようになり、西地中海の商業も傾き始めた。1600年に設立され、レバント会社と提携した東インド会社がそのエネルギーを喜望峰に集中するにつれ、地中海は供給者であるよりも北方の大国からの物資の受給者になってしまった。
17世紀初頭にはクレタの精神はヨーロッパで開花したが、島の商業や経済は地中海全体の不振を反映していた。1645年までにはクレタは攻囲された。1669年にはトルコに降った。しかしながらイスタンブールや黒海を経由したエーゲ海とロシアや中央ヨーロッパとの貿易は、新しい地平を準備していた。1686年にブダペストがトルコから解放され、ギリシャの株に由来するハンガリーのトカイワインがエーゲ海人による何世紀にもわたる商業支配が生んでいたギャップを埋め始めたのである。